奈良⇔山形

絵描き、三瀬夏之介の日々諸々。
散歩。
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    ただでさえ桜開花の遅い山形。寒さの続いた今年はついにゴールデンウィークと重なりました。

    去年はお花見が自粛でしたね。


    なかなか時間がとれずにできない散歩。
    なんとか時間をみつけて歩くと必ず収穫がある。





    先日、女川に行ってきました。
    土台から引きちぎられて流されたコンクリートのビル。ちょっと信じられない状況のままとどめられているこれらは記憶材として残されるのかな。

    女川には何度も訪れたことがあり、知った風景が根こそぎなくなっているのはやるせないものです。

    ものを作ること、残すこと、作れないもの、残せないもののことを考えつつ歩く。
    いくつかの転がったビルを順に歩く人たちが、思索しながらの巡礼者のように見えました。


    | natsunosuke | 散歩 | 18:42 | - | - | - | ログピに投稿する |
    総括。
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      「東北画は可能か?」を鴻崎正武さんとスタートさせて2年。
      「東北芸術工科大学とその周辺」という創立20年の経験と蓄積をもったアーカイブと教員という財産を、まずは借りずに、僕たちの目線と力量で出来ることが、この大学の多様性のひとつになるだろうと、僕らで外へと無我夢中で動いてきた。



      2年間の巡業を終えて、そろそろ僕たちの大学に戻って、その知見をお借りして自己検証を始めようと、今回の大学での展覧会を決めた。
      震災前までは辺境、土着のイメージであり、古き良き日本を投影され続け、311以降はその表現が震災、津波、原発といったフィルター越しにしか見られない苛立ちと共に。

      東北ではいつまでたってもニュートラルな表現は可能ではないのか?
      そういえば日本という辺境の地でもニュートラルな表現は可能ではないのか?ニュートラルということはレギュレーションの日々移り変わる、可変的な中心にしかなく、それ以外の地での、コンセプトでの表現はいつまでたっても亜流なのか。


      多くのゲストをお迎えしての自己検証の日々は毎日ほんとうに刺激的なもので、まったくもっと早く開催しておけばよかったと思う。
      そしてこの日々は僕の考える美大の理想の姿を少しだけれども実現させられている姿だった。

      学生も保護者も市民も専門家も地域の人も首都圏の人も入り乱れ、表現について考える場がある。そこに制作の現場と発表の場が加われば最高。
      唯一足りないのは美味しいお酒か。それならそれは学外に作ればいい。

      「東北画は可能か?」の表現は、時代との関係によって可変的なレギュレーションに乗っ取って、あくまでも絵画として無視できない勝負に持ち込むのもひとつ、そして山形美術館の岡部さんからの提起により、地域の限定性と複数のメディウムの相互乗り入れによる、モンスターのような制作物にも持ち込めると感じた。

      さらに岡部さんからの示唆として、その物語を地域の人たちにどのように物語ってもらうのかという問題があった。僕たちの物語素を様々な人たちに新たな物語として語ってもらうという可能性。

      今後の動きとして、「12号サイズの東北画の増殖」「共同制作の発展」「パフォーマンス、イベントを含めた場作り」の三本柱に加えて、絵本作り、論述を含む出版、プラットフォームのような恒常的な場作り、を考えていた僕にとって、その提起はまさにイメージに言葉を与えられたという感覚があった。

      そして学生みんなに聞いて欲しかったこと。それがメディアには事象に対する速度の違いがあり、その速度と自身の気質のフィット感、逆に言うとフィット感に合わせてメディアなんて自由に選択すればいいんだという岡部さんによる指摘。

      写真の速度、言葉の速度、音楽の速度、絵画の速度。そしてアートなんて関係のないフィジカルな速度。

      世界のどこにもニュートラルなんてないのよ。すべては相対化の世界だけども、どうせこの感覚は解ってもらえないなんてせまい世界に閉じこもらないでね。

      まぁつまり「東北画は可能か?」ってセンテンスでは、本場ではない辺境の地でアートすること全般、そして本場と辺境、主流と亜流といった相対的な考え方の正当性や、それによる様々な問題点、利点をひっくるめていい当てたかったんだと思う。

      中途半端に「普遍」だとか「アートシーン」だとか「自分探し」なんて言って足踏みしてるくらいなら、この場所から栄養ガンガン吸い取って制作して力強く進んでいく方が泥くさいけどよっぽど近道じゃね?ということ。


      「東北画は可能か?」は今後、秋田、岩手での展示を予定しています。
      まだまだ考えなくてはいけないことが山積みです。
      | natsunosuke | 展覧会 | 11:29 | - | - | - | ログピに投稿する |
      原論。
      0
        先日の内藤正敏さんをお迎えしての「東北とは何か?」
        大人が自らの信念を、その執念ともいえるバックグラウンドと共に語り、若者たちを鼓舞させる姿に感動しました。
        なかなかタフな毎日が続くけど、こんな状況が常態になれば色々と変わっていきそうな気がする。



        彼は彼の原論を語ったのだと思う。

        大学には様々な原論が乱立していて、学生たちはそれに影響を受け、つまみ食いし、さらに深く掘り下げ、図書館で書物にまみれ、街に山に出かけ、人や大自然にふれ合い体験の質を高める。
        表現の手前にはその深い関心と動機が耕される必要がある。

        内面が耕されていれば、自作の前でその背景を語れるのは当たり前の話。それができないということは、その主題に対して有機的な構造、関係性がまだ結ばれていないということ。表現以前の段階で作品作りを始めてしまい絵の中で苦しんでいる姿をよくみかける。

        それを美術で表現する必然性は本当にあるのか?


        内藤先生は「美術において教えることは何もできない。ただ発見してやることだけだ」とおっしゃっていた。
        自らが自らを教育していくその能動性のきっかけとしてこの場所は機能できるか。

        描き残したいという強い欲望、動機から物質に関わり没入していく感覚と、それが美術としての付加価値を持つという社会的な文脈との間でいつも引き裂かれる。
        しかし世界と自分と表現の関係を最初に押さえておかないと本末転倒になる。絵と格闘しろなんて言うこともあるけど、実際絵の中に答えはない。

        絵の中に答えはあるとも言える。絵が世界の整理整頓であり、新たな秩序の発見の場であるならば、そこでの知見は現場である世界に連れ戻さなくては行けない。

        経験と表現とそして実践、「いま」「ここ」「わたし」が切り結ばれる素晴らしい場でした。
        | natsunosuke | 芸術 | 15:21 | - | - | - | ログピに投稿する |
        日々。
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          今年から担当することになった大学院専攻長としての業務が鬼のようです。
          これまでの良さを引き継ぎつつ、さらに発展させられるための仕組み作り。
          様々な関係性の中でひとつのコミュニティーが出来上がっていることを実感する毎日です。

          書類仕事はともかく、座学の講義も増えました。講義準備でほとんどの時間が費やされる。
          もちろん勉強になることも多いですが、制作の方は完全にストップしています。

          学部の授業もスタートしました。
          今年からは1年生と3年生のカリキュラムが変更に。
          特に3年生は10名前後のグループに別れ、各学生の志向をさらに少人数で掘り下げることになります。
          画像は長沢兄貴が絵作りの試行錯誤を公開中のときのもの!

          自己が欲するものを描くだけではなく、そこに他者性が差し込まれ、自身の欲望と火花を散らすような強度のある表現を待っています。そこには自己表現を越えた価値が生まれることを信じて。





          そして「東北画は可能か?」の東北芸術工科大学での展示もスタートしました!
          今日は17時半からトークイベントです。
          会場でお会いしましょう!


          ◎「東北画は可能か?」作品展示 概要
          会期:2012年4月17日(火)〜5月2日(水)
          時間:月〜金曜日9:00〜20:00(土曜日9:00〜17:00)
          会場:東北芸術工科大学図書館2階スタジオ144(山形市上桜田3-4-5)
          休館日:日曜日・祝日休館


          | natsunosuke | お知らせ | 10:49 | - | - | - | ログピに投稿する |
          白昼夢。
          0
            今日は久しぶりにちょっと大学の裏手を散歩してみた。
            山形は冬と夏しかないんだけど、今日のような変なエアポケットのような日もある。

            何か白昼夢のような。





            | natsunosuke | 山形 | 23:56 | - | - | - | ログピに投稿する |
            新年度。
            0
              ガイダンス、ガイダンス、ガイダンスです!
              新年度がいよいよスタートしました。
              仕事、原稿などが溜まりに溜まり、緊張感がとれず眠りの浅い毎日です。。

              とにかく焦点絞ってひとつひとつこなそうと、先に予定されていた小作品の制作を終えましたよ。
              あとはどでかい水墨を仕上げたら一段落。
              しばらくは気の抜けない毎日が続きます。
              しばらく潜ります〜


              | natsunosuke | 制作 | 21:03 | - | - | - | ログピに投稿する |
              芽吹き。
              0


                研究室のコナラちゃんが芽吹いてきました。例年より早い新緑です。
                ここ最近は2013年に開催する展覧会に向けて計画的に制作を進めています。


                しかし物事はそううまく進むこともなく、ゆっくりと世俗から離れて考えたいこともあったので近所の温泉に向かう。
                ここ銀山温泉はおしんの古郷。


                お宿は贅沢に隈研吾。
                完全にリフレッシュできました。


                帰りにはずっと行きたかった真下慶治記念美術館へ。
                最上川を見下ろす最高のロケーション。画家の人生を考えるひと時。



                こつこつ積み重ねながら、いっぱい勉強して、徐々にスケール感をアップさせていきましょう。

                JUGEMテーマ:地域/ローカル

                | natsunosuke | 山形 | 19:32 | - | - | - | ログピに投稿する |
                春分。
                0
                  日々は息も付けぬほど忙しくとも、
                  外は一雨ごとに暖かくなってきてます。



                  JUGEMテーマ:地域/ローカル
                  | natsunosuke | 山形 | 19:22 | - | - | - | ログピに投稿する |
                  頭痛。
                  0
                     集中の続く毎日。



                    | natsunosuke | 制作 | 20:55 | - | - | - | ログピに投稿する |
                    メモ。
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                      壁画的なサイズが持つ公共性、趣味的な私的鑑賞を拒絶するような性格、所有されることへの抵抗感。

                      キャンバスが大きい場合、画面に近づけば近づくほど全体像は把握できない。つまりある部分を描いているときにその部分が全体の中でどういう配置にあるのか、どういう設定にあるのかを、描いてる本人も描いてるときには想像でしか解らないという経験。
                      サイズは物理的な大きさであるのに対して、スケールは構造的な大きさであって、サイズが物理的に大きくてもスケールの小さな作品ということはありえる。
                      小作品を集中して描いてる直後に、大作に向かうと、画面サイズにおけるタッチの解像度設定が狂う。逆にいうとあるタッチを基準にして画面サイズが決まるということはある。

                      具象的な再現性を放棄することによって、ある構造を指し示す。それは僕にとっては大きな言葉で言うとこの世界の自然と人工せめぎ合いのようなもの。だから技法的にも水が描き、僕が描くものがせめぎ合う。見える形は現実との関連を指し示すに過ぎない。

                      しかしまあその関連ってやつはかなり重要で、大きな絵の中には現実との関連を拒絶すべく、まったく再現性を拒否し、かなり自覚的に絵画ならではの構成要素としての構造を指し示す部分と、現実との関連をほのめかすための、具象と抽象のせめぎ合うフォルムが混在することになる。

                      例えばにじみやぼけといった絵の中でどうしようもなく立ち上がってくるあるイメージ対しての僕の振る舞いということは、具象的な関連も抽象的な関連も含んでいるし、現実への関連ともいえる。何を意図的に自覚的に選択していくかによって絵のゴールは変化する。ジャムセッションのように。


                      形式は疑うべきだとは思う。そのために多くの実験はなされ、多くの言説は費やされるわけだけど、それはその形式を信じるために行なわれるべきで、信じれなかったら そこを去ればいいし、信じるに足ると思えばその形式でどんな理想を描けるのかということに突っ込んでいった方がいい。

                      若さは無知なので、これまで歴史が証明してきたことだって最初からおさらいして経験しなくちゃ本質的には解らない。絵画を常にやり直すということ。だから人生は短い。でも短いからこそ形式を証明するための行動で人生を終わらせてる場合じゃないと思う。

                      そういった時代の切迫感と、ある種の無知ってやつが昨今の『具象』ブームだと思うわけです。

                      そのおさらいを可能にするカリキュラムが美大にあるのかという批判がある。まさかみんな自分が好きで描いたものがそのままアートになると思ってはいないだろうけど。歴史の初期設定が様々ところに偏在してるのが日本。各美大が各領域がコンセプトを立てて体系的なカリキュラムを再構成すべき。

                      JUGEMテーマ:アート・デザイン
                      | natsunosuke | メモ | 21:23 | - | - | - | ログピに投稿する |
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