奈良⇔山形

絵描き、三瀬夏之介の日々諸々。
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メモ。
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    壁画的なサイズが持つ公共性、趣味的な私的鑑賞を拒絶するような性格、所有されることへの抵抗感。

    キャンバスが大きい場合、画面に近づけば近づくほど全体像は把握できない。つまりある部分を描いているときにその部分が全体の中でどういう配置にあるのか、どういう設定にあるのかを、描いてる本人も描いてるときには想像でしか解らないという経験。
    サイズは物理的な大きさであるのに対して、スケールは構造的な大きさであって、サイズが物理的に大きくてもスケールの小さな作品ということはありえる。
    小作品を集中して描いてる直後に、大作に向かうと、画面サイズにおけるタッチの解像度設定が狂う。逆にいうとあるタッチを基準にして画面サイズが決まるということはある。

    具象的な再現性を放棄することによって、ある構造を指し示す。それは僕にとっては大きな言葉で言うとこの世界の自然と人工せめぎ合いのようなもの。だから技法的にも水が描き、僕が描くものがせめぎ合う。見える形は現実との関連を指し示すに過ぎない。

    しかしまあその関連ってやつはかなり重要で、大きな絵の中には現実との関連を拒絶すべく、まったく再現性を拒否し、かなり自覚的に絵画ならではの構成要素としての構造を指し示す部分と、現実との関連をほのめかすための、具象と抽象のせめぎ合うフォルムが混在することになる。

    例えばにじみやぼけといった絵の中でどうしようもなく立ち上がってくるあるイメージ対しての僕の振る舞いということは、具象的な関連も抽象的な関連も含んでいるし、現実への関連ともいえる。何を意図的に自覚的に選択していくかによって絵のゴールは変化する。ジャムセッションのように。


    形式は疑うべきだとは思う。そのために多くの実験はなされ、多くの言説は費やされるわけだけど、それはその形式を信じるために行なわれるべきで、信じれなかったら そこを去ればいいし、信じるに足ると思えばその形式でどんな理想を描けるのかということに突っ込んでいった方がいい。

    若さは無知なので、これまで歴史が証明してきたことだって最初からおさらいして経験しなくちゃ本質的には解らない。絵画を常にやり直すということ。だから人生は短い。でも短いからこそ形式を証明するための行動で人生を終わらせてる場合じゃないと思う。

    そういった時代の切迫感と、ある種の無知ってやつが昨今の『具象』ブームだと思うわけです。

    そのおさらいを可能にするカリキュラムが美大にあるのかという批判がある。まさかみんな自分が好きで描いたものがそのままアートになると思ってはいないだろうけど。歴史の初期設定が様々ところに偏在してるのが日本。各美大が各領域がコンセプトを立てて体系的なカリキュラムを再構成すべき。

    JUGEMテーマ:アート・デザイン
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